十日町PのDTだったら何が悪い!

青い空と入道雲に見た時間の流れ-人は衰え自然は変わらない-

風景が変わらなかったら何が悪い!

気がつくと新しい建物が建っているように、結構めまぐるしく変化しています。
または、「あれっ、あのお店、あんな店だっけ…」と感じてしまうくらいに、知らないうちにお店が入れ替わっていることもあります。

都会は変化が顕著ですね。

僕の実家は田舎なのですが、それでも帰省する度に、新しいお店が建っていたり、新しい家が建っていたりします。

都会よりは緩やかですが、少しずつ変化しているようです。

家で畑仕事をしている最中に、ふと疲れて見上げてみると、栗の木があります。

自分が子供の時からそこに立っていて、そして今もさほど変わらぬ姿をしています。

祖母が昨年亡くなって、気がついたら一年経ちました。

身内が亡くなるという経験がほとんどなかったので、なんとなく実感がわかないのですが、家が少し広くなって、仏壇の上に遺影が飾られていると、もう祖母は居ないんだなと思います。

そんな気持ちを抱きながら、また栗の木の変わらなさを見ていると、人が周りに及ぼす影響は驚くほど小さいとわかります。

もちろん、亡くなってすぐは悲しみにくれていましたし、祖母が亡くなって父が以前よりもぼんやりしている時間が増えたなとか、感じます。

祖母は父の母ですから、ぼくよりも悲しみが深いはずなので、当たり前なんですけれどね。

こういう文章を淡々と書いてしまう自分はやはり、心がさめていると思いつつ、人の儚さというものも感じてしまうのです。

自分が死んだら、周りの人は悲しむけれど、それは一過性のもので、大勢に影響はありません。

そして、家の栗の木はその後何年も成長して、変わらない風景を保ち続けることでしょう。

これは夏の日の出来事でしたが、暑すぎた夏の爽やかな空を見ながら、なぜこんなにも郷愁にかられてしまったのかと考えると、周りの自然は衰えていない(ように見える)のに、自分だけが衰えてしまったことを自覚していたからでしょう。

自分の中から力が失われていくのが、以前と比べるとはっきりわかります。

夜更かしが出来なくなった。
息が切れる。
なんだか目がかすむ。
注意力がなくなる。

生き物の摂理からは逃れられず、刻一刻と終末に向かっているという実感だけがあります。

夢に満ちあふれていた20代の頃にはたどり着けなかった心持ちですが、これはこれでよいのかなと思います。

衰えてしまったものはもう元には戻りませんが、衰えたことを自覚して生きるのは無理をしないという観点からも大事なことでしょう。

同じ年代の人でも、希望に燃えている人はこんな気持ちにはならないかもしれません。

前を向いていれば、自分のことを省みることが余りないからです。
それはそれで羨ましい生き方です。

自分とは違う歩み方は羨ましく見えるものですから。

そういえば、成人式に際して文章を寄稿した覚えがあります。

その時の自分は確かに夢を持っていて、希望に満ちあふれていました。

その時の自分に言ったら怒られるかもしれませんが、「夢は叶わないけどそんなに悪くない人生だよ」って思ってます。

というわけで、人生の後半戦スタートです!

って、入道雲、文に入ってないじゃない。